「ねえ、見て見て」「ねえねえ、聞いて聞いて」「これ面白いから読んで」「これ絶対おもしろいからやってみて」。
どうして私たちは自分が面白いと思ったことや興味の引いたことを、他人にも共感してもらいたいと思うのだろう?
子供の時、共感してくれない人を見てあるとき気づいた。「私にとっておもしろいことが他人にとって面白いわけではないんだ。」それで、相手の趣味を知ってからでないと「見て見て」とは言わないことにした。そうすると不思議と「どれがいいかな?」と聞かれたときに相手を知らないと言葉に詰まってしまうようになった。「好みなんだけど、どういうのが好きなの?」と言わざるを得ない。共感が得られる結果にはあまりならない。
ブログやtwitterで「こんなことがあって〇〇でした」「△△の見つけました」と書きつづる人たちは、共感を求めているのではないだろうか?いろいろなコメントの中で共感してくれるものがあるとうれしい。コメントする側からすれば、コメントできる人が多数いればいつも返事をしなくてはいけないというプレッシャーもなく、返事したいときにすればいいし。
平均的に、女性は共感するのがうまい。「そうよね」「それわかる」「それ私もなの」という言葉を多用する。コミュニケーションではまず共通点、共感点を見つけることからスタートするとうまくいく。女性はそれを自然に身につけているのだろう。逆に共感しない天邪鬼な人はコミュニケーションがうまくないということになる。何らかの理由で無意識に共感を避けているのだろう。
共感するということがどういう意味を持つのか?共感するとほっとするし、相手を近くに感じ、仲間だと思える。それを共感と呼ぶのだろう。なぜ共感したいのだろう?
3/27/2009
3/18/2009
デジカメにUSBメモリは?
PC間でファイルの移動をするには、USBメモリが便利。SDカードよりもコネクタの方が使いやすいからだ。
なぜデジカメにはUSBメモリ使わずにUSBケーブル使うのだろう?
USBメモリの方がよくないだろうか?
なぜデジカメにはUSBメモリ使わずにUSBケーブル使うのだろう?
USBメモリの方がよくないだろうか?
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